last updated 1997/05/23
第8話(全130話)
ドクター・ルゥドの話 (2/2)
「生まれてきたのが罪なのではない。生まれてきたのは喜びだよ、ピート。ただ人はその喜び
がいつしか色褪せてしまうのじゃないかと、つい思ってしまうんだ。喜びが大きければ大きい
ほど、それが失われることへの不安も大きくなる。マリイアがきみのことを心配し続けるのは
、それだけきみという名の喜びが大きいからだ」
「ぼく、母さんに心配をかけたくない」ピートは言った。「船を見に行ったのだって、母さん
を喜ばせたいからだよ。母さんはぼくに世界のすべてを見渡せるような人になって欲しいんだ
もの。いつもそう言ってるもの。だから、ぼく・・」
「それは罪ではないと、そう言ったね。ピート、母さんが倒れたのは風邪のせいだ。しつこい
風邪が流行りはじめてる。たぶんマリイアはマーケット辺りで菌を拾ってきてしまったんだろ
う」
「風邪なの? 本当にただの風邪なんですか?」
キョトンとなってピートはドクター・ルゥドをみつめてしまう。安堵感が体の内側に膨れ上
がり、彼はその場にペタンと座り込んでしまった。
「ただの風邪と侮るのは禁物だがね。しかし心配はいらんだろう。マリイアはとても心の強い
人だからなる心の強さは時として逞しい肉体よりも頼りになるんだ」
確かに、マリイアはとても心の強い人間だった。何があろうと決してうつむくことなく前を
、自分に与えられた自分だけの道の行く末を胸を張ってみつめる人だった。そんな母と冬山に
立ち向かう気力を保ち続けた父との間に生まれたピートなのに、その心はあまり強いとは言え
ないようだ。何しろ母が倒れたと聞いただけで、この世の終わりだと思い込んでしまう、彼は
そんな少年なのだから。
きっと劣性遺伝って奴なんだ。
ピートはそう思う。
劣性遺伝、というのは学校の理科の時間にエンドウ豆を題材にして語られた言葉だったけれ
ど、それは単にエンドウ豆だけの問題ではない。両親から素晴らしいものだけを受け継ぐ人も
いれば・・これは優性遺伝という・・そうではなく親が自分たちですら気づかなかった弱さや
脆さだけを全部引き継ぎ、弱さの塊のようになってしまう人もいる。それは自分であれとこれ
を下さいと選べるようなものじゃない。たまたま運のいい番号を引き当てられるかどうか、と
いった宝クジみたいなものだ。ピートは決して大当たりの出ないクジを押し付けられたと思っ
ていた。そんな思いが彼の弱さをさらに助長させて行くことになるのだが、その悪循環に彼は
まだ気づいていなかった。
ピチョーン・・・ピチョーン・・・。
家のどこかで水の滴る音が聞こえている。たぶんお風呂場だろう。先週もボルトを絞め直し
たばかりなのに、また水が漏れはじめている。
劣性遺伝なんだ。仕方ないよ。ぼくが弱虫なのはぼくのせいじゃなくて遺伝子のせいなんだ
、とタメ息をついているピートを、水の滴る音が笑っているように感じた。絞めても絞めても
漏れてしまう水道のバルブのように、そんな弱気なこと言ってると、きみの中にある強さも逞
しさもどんどん漏れ出て行ってしまうよ。ピチョーン・・・ピチョーン・・・。水がそう言っ
ているような気がした。
「私はもう行くよ」
言ってドクター・ルゥドはマリイアの寝顔をもう一度眺め降ろしてから、静かに椅子から立
ち上がった。
「ピート、母さんはこのまま少し眠らせておいてあげなさい。部屋を出来るだけ暖めて、そし
て乾燥させないこと。出来るか?」
「出来ます。でも、それだけですか?」
不満だ、と言いたげにピートは言葉を返した。
「母さんが寝込んじゃってるのに、ぼくにできることは、ただ部屋を暖めることと、寝顔をみ
つめることだけなんですか?」
「それと乾燥させないこと。どうやら風呂場で水が漏っとるようだから、そこのドアをちょっ
と開けとけばいいだろう。水漏れひとつとっても何かの役には立つ」
「でも、ぼく水漏れより役に立つことしたいんです」
「いまはマリイアを休ませてあげるのがいちばんだ。必要なことを必要な時にしてあげるのが
看病というものだよ」
「でも、嫌です」ピートはいつになく強く言った。「ただ寝てる母さんの顔見てるだけなんて
、ぼくは嫌です。何かしたいんだ。ぼくのことを心配してくれる母さんのために、頭に冷たい
タオルを当てて上げるとか、足をさすってあげるとか、そういうことしなくていいんですか?
」「熱が出るようなら、冷たいタオルを当てなさい。体が冷えるとつらそうに言うようなら足
をさすって暖めてあげなさい。いまはどちらも必要じゃない。もしどうしても何かしなくては
気が収まらない、というのなら母さんの書いた童話でも静かに読んでいるといい。マリイアの
物語はとても心安らぐ出来だよ。読めば、そこに何か発見があるだろう。マリイアが君だけに
そっと囁いた秘密のメッセージをみつけられるかもしれんぞ」
ドクター・ルゥドはポンとピートの頭を叩くと、ひとつ息をついてからシャンと背筋を伸ば
した。鞄を手にして明日また寄ってみよう、と言い置くと、ドクターは静かにピートの家を出
て行く。ピートはドクターの後ろ姿に深く頭を下げると、そのまましばし立ち尽くす。
(つづく)
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